2016/09/13 08:47

『自由人はラザニアが好き』



自由の国アメリカ、
などと言う言葉が流行った時代があった。

それはまだ海外旅行が高嶺の花の時代の事だ.

そして男女関係が清廉潔癖で、女性と連絡を取る手段が、
彼女の自宅の黒い固定電話に電話をかけ、頑固オヤジが受話器を取り、

『うちの娘に何のようだ❓』

の決まり文句を、
上手くパス出来る者にしか与えられない貴重な時代の話だ。

こと映画を見れば主人公のヒーロー、ヒロインは
あっという間に恋に落ち、

銀縁に牛乳ビンの底メガネ、
お決まりのバーコードヘアーのオジサン達も、
アメリカに行けば今よりは女の子にモテるのではないかと錯覚に陥り、

中には錯覚の世界から抜け出せない若者も出現して、
自由の国アメリカに何かを求めて我ら先人の成功者達は旅立った。
そんな話をよく聞く。

多くの日本人がかの国で大成功を納めたと同時に
大多数の諸先輩方も大失敗したことだろう。

世の皆様はどの様にお考えになるかは知らないが、
私は成功者の話よりも、失敗談の方が興味がある。

失敗は成功のもと、と云われているからである。

今や情報社会、昔はかなりの体積を要した百科事典の情報が、
今では小指の先程の小さな部品に収まり、
そしてその情報の量たるや百科事典どころではない。

こちらが知りたく無い、知る必要もない情報が勝手に入って来る時代だ。
先人達が勝手にイメージした自由の国アメリカ、は、本当に自由なのか?

『自由』


この言葉は便利な言葉だ。
抽象的で何となく夢や希望を掻き立て、カッコイイ感じがする。

カッコイイから憧れる。
アメリカと言う国は本当に自由なのか?

そのカッコイイ国では1度病に侵されれば医療費は異常に高く、
その費用を支払えない人は死ぬしかないし、
子供を独りにさせたり、夜間の女性の外出なんかもっての他。

留学生はアルバイトをすることが出来ないし、VISA取るのも一苦労。
商売をしようと考えたら、日本では考えられない程の膨大な手続き
や許可を受けなければならない。

それなのになにゆえ自由の国、と言うイメージなのか?

私なりに紐解いた答の1つがこれである。
日本では禁止されている幾つかの事柄が解放されているので
自由と勘違いしてしまうのだろう。

例えば、拳銃。

アメリカでは一定の条件をクリアすれば購入ができる。
『カッコイイ』、拳銃が……………

その気持ちは解らなくもない、
私もかつては拳銃の雑誌を読みあさり、
プラモデルのモデルガンを作って遊んでいた。

あくまで遊びである。

『ワルサーP38』
『コルト・ガバメント』
『コルト・パイソン357』
『44マグナム』

時代を彩った、名機、名銃の名前だ。

マニアックなディテールに拘る、
ルパン三世ではワルサーP38の存在が見るものを惹き付ける。




しかしながらが本物の拳銃は実際は人を殺す道具である。

殺人の道具がカッコイイのか?
そんな事があってはいけないと思う。

一般市民が『自由』に拳銃を持てる国では気楽に繁華街を闊歩出来ない。
日本人の思う『自由』は本当は不自由なのではなかろうか?
などと考えてしまう。

一方、車の改造等は確かに自由だ。
ボディーをどう作ろうが、タイヤをどう替えようが個人の自由、
表現がしやすく、アーティスト達もそれを自己表現によく使っている。
街中を見ても日本の様に画一的な車ばかりが行き交う事はない。

日本とは違うからカッコイイのだろう。
日本語とは明らかに違う響きの言葉がいっそうそのイメージを拡大させる。

ビートルズはアメリカ人では無いが英語で歌を唄う。
正確に言うと、アメリカ英語とは違うみたいだが、
私達からしたら似た様なものだ。

そのビートルズが伝えるメッセージは解りやすく、
半世紀が過ぎた今現在も人々の心に響く程である。

ビートルズの音楽は洋楽と言う類いのものである。
洋楽の中にはフランス語の曲やスペイン語、その他の言葉の曲が含まれる。

昔、郷ひろみが歌っていた
『哀しみの黒い瞳』



と言う曲。
この曲の原曲はスペイン語で、フリオ・グレイシアス氏が歌っていた。

英語の洋楽に耳が慣れていた私は、スペイン語の曲を聞いた時、
妙な違和感を覚え、やはり洋楽は英語でないと駄目だなぁ~と、
変に納得した覚えがある。

今となっては、
英語もフランス語もイタリア語もアラビア語も違和感無く耳に入って来るが、
やはり先入観と言う物の威力を知った気がした。

でもそれは連中の思うツボなのか?
または我らが勝手に抱く、連中へのコンプレックスなのか。
もしも後者であるなら、これからの日本人は考えを改めたい。

『ラザニア』




『ラザニア』の話を書こうと思っていたが、話がそれてしまいました。

なんか旨いそれが『ラザニア』だったと言う事を知ったのは、
二十代半ばの頃だったと思う。

私は以前アフリカのリビアと言う国で、工事現場の会計の仕事をしていた。

そこには専属のフィリピン人コックが居て、
ケーキの様なミートソースの塊の料理がよく出され、
その時まで食べた事が無かった料理でとても旨かったと記憶している。

最近、知人の勧めでFacebook何ぞを始め、
たまたまラザニアを見掛けたので久しぶりに食べたくなった。

そんな事を考えていたらいつもの連中から食事会をやってくれ、
と言うリクエストが来たのでソコで作ろうと考えた。

お持ち帰りのラザニアを買う事も出来るが、ものつくリストの私は
料理の開発も好きなので自分で作って見ることにした。

百科事典の情報よりも桁違いの情報量のインターネットで
作り方を調べて見ると、だいたい予想通りの作り方だった。

ん?

そうです、作った事が無いのです。

だいたいこんな味で、こんな形だったかな?
と言うイメージで作って行きます。

車の修理と一緒で、想像や予想で作って行くのが自由人流です。

地層の様に何層にも平べったいパスタが重なっているのがラザニア、
パスタの間に挟まっている何かは赤い色をしているのでトマトソースの
何かであろう。

私の食した記憶では肉類の感じがするので、ミートソースだと考えた。
しかし一番上の層の色は赤く無い気がする。
焦げているイメージなのでどうせホワイトソースか何かだろう。

ホワイトソース?
大体の作り方は知っているが作った事が無いしメンドクサそうである。

料理は自由だ。

その昔、そんな昔ではないが、
あるコマーシャルで今は亡き中華料理の名人『周 冨徳』氏が
こんな事を言っていた。

『私は、中華料理の料理人です。私の仕事はとても楽な仕事です。
だって上手くても不味くても、料理なんて食べようと思ったら何でも食べれるんだから。』

凄いセリフだな、あの周 冨徳がそんな事を言うなんて、と、
その潔さに感銘をうけたのを鮮明に記憶している。

あの気楽さが一流の証なのだろう。

余談であるが、その周 冨徳さんは一千種類の料理を作る事が出来ると言うが、
そのレシピは一切知らないと言う。

ではどう作るのかと言うと
『味の記憶』からその料理の方法を導き出すと言うのだ。

私の料理の方法と同じだ!またはものつくりの方法と同じだ!と、
私の考えが間違っていないことを証明してくれた気がして
今までよりももっとファンになった。

そのメンドクサイ白い奴、どうやって手間を省くかと考えたら、
前に作ったポテトサラダの具が無い奴に似ていると言うことに気がついた。

上手くても、不味くても取り合えず食べれるのだからやって見ようと、
ホワイトソースの代わりに具の無いポテトサラダを重ねて見ることにした。

そう思って次に一番の肝のミートソースを作ろうとしたとき、
挽き肉を買うのを忘れた事に気付いた。

しかし諦めるのは未だ早い。

買いだめしたスーパーの半額セールの肉が大量にストックして有るので、
それを細かく刻んで使う事にした。

これを言ったらもとも子もないが、
ラザニアの平べったいパスタはスパゲッティーを平にしたもの、
ミートソースは普通にミートソース。

スパゲッティーボロネーゼが形を変えただけではないのか?
若干ホワイトソースとチーズが入るが、喉元過ぎれば皆同じ。

寅さん風に言えば、それを言っちゃあお仕舞いよ!
ってところでしょうか。

そんなこんなでラザニア擬きを自分なりに作って見たが、
客人の評判は上々、ホワイトソースが無くても違和感が無いとのこと。

違和感が無い?

やはり皆様、ラザニアはこう言う物。と言うイメージが有るようだ。
それを否定はしないが、食は楽しむもの、旨ければいいじゃん!
なんて言う事は世間では通用しないのかも知れない。

『腕時計はこう言う物』


腕時計の常識は人それぞれ、
ラザニア擬きと一緒で面白ければいいじゃん!ってわけには行かないものか。

世間では通用しない違和感があっても、
面白ければいいじゃん!

と言って頂ける様な仕上がりを目指して次の作品に取り組みます。


ものつくリスト  小柳 健一